中曽根政治

この頃、ちょうど社会人になる頃なのでよく覚えている。
背景にはレーガノミクスやサッチャリズムがある。なんでもかんでも自由化すればよい。それが当時の趨勢。
それには冷戦構造の末期、という大局的なバランス崩壊前夜があったことはあとで知ることだ。

学校を出るとき、卒業の挨拶で当時の先生が「プラザ合意を受けて、君たちの未来は大変なことになる。」と言われていたことがよみがえる。

この”大変なこと”がどんなことかは後で知ることで、中曽根首相、竹下蔵相時代に残した残骸は今も日本が抱える恥部だ。

バブルというとNTT株が公開前に大暴騰したり、JRやJTの株が値上がりし、インフレを実感したのはわずかな瞬間である。
その後冷戦構造が崩壊し、プラザ合意のおかげで円高が進み、あとはご覧の通り。デフレの30年だ。

その元凶がこの妖怪だった、というのが私の持論である。
彼は憲法改正を見届けたいがために101歳まで生きたのだ。老害だ。
アベノミクスは彼の期待に応じることができなかったのか?



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以下日経社説より


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[社説]現実を直視した中曽根政治  憲法改正 政治 社説 2019/11/29 19:00

「戦後政治の総決算」を掲げ、国鉄民営化など行政改革で名を残した中曽根康弘元首相が亡くなった。「大統領的首相」を標榜し、民意に敏感な政治スタイルは、その後の歴代内閣に大きな影響を与えた。「劇場型政治」のルーツともいえるかもしれない。

戦後2回目の衆院選で国政に登場した中曽根氏は、自ら作詞した「憲法改正の歌」を発表するなどタカ派的な言動で早くから注目を集めた。利害調整型の議員が多い自民党では異彩を放った。その一方で、やりたいこととやれることをきちんとわきまえた現実主義者でもあった。首相に就くと、「憲法改正は政治課題にのせない」と表明し、護憲勢力に肩すかしを食らわせた。

悲願だった靖国神社への公式参拝を強行したのも、近隣諸国とのあつれきを考慮して翌年以降はやめたのも、理想を掲げつつ、現実を直視した中曽根政治を象徴するエピソードといってよい。

ロッキード事件の渦中にあった田中角栄元首相に担がれて首相になったため、「田中曽根内閣」などと皮肉られ、短命政権との見方もあった。
その中で取り組んだのは、労使関係が破綻してスト続きだった国鉄の再建といった国民生活に身近な課題だった。本当にやりたかった政策ではなかったかもしれないが、5年もの長期政権につながった浮揚効果を「行革グライダー」と呼んでいた。

中曽根政治のもうひとつの特徴は、外交・安保の重視だ。米国の国力が傾き、日米安保に安住するだけでは国を守れない。いまの日本が直面する課題にいち早く気づき、防衛費の国民総生産(GNP)比1%枠を撤廃するなど、防衛力の整備を進めた。
晩年、回顧録を次々と執筆したことは評価すべきだ。同世代の政治家が先立ち、自分に都合よく歴史を上書きしているとの批判もあったが、後世の歴史家に役立つ手掛かりを残した。これからの首相も見ならうべきだ。

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